2006年10月 6日 (金)

綱貫(つなぬき)=和製皮沓

 久方ぶりに人権教育課を訪ね、いろいろと資料(市民意識調査等)を頂いてきました。その中で思わぬ資料が。それは、市内のある総合センター(俗に言う旧解放会館ですが、姫路市では嘗てその様な名称で呼んだことはない)の皮革資料室のパンフです。A3版両面刷り6折り、1面には地域内の施設案内図、他面に皮革製品やそれらを造るための工具の写真紹介が付いています。その中で目に付いたのが銭入れ・たばこ入れや草履などとともに綱貫(つなぬき)という巾着形の皮沓でした。

 大部以前に何かで読んだ記憶がありますので、帰宅後ネットで検索を試みましたところ、
   西宮市立郷土資料館ニュース(バックナンバーNo.10 1992.1.1)
 に接しました。

 その他2~3の資料を手繰ってゆく中に以前に読んだ記憶というのは、なんと「部落解放」誌2004年6月号であり、手許に保存をしていたではありませんか。

 今までは、世が戦国から太平となり、武具としての需要の減少が皮革産業に大きな衰えを招いたかのように憶えて参りましたが、これらの資料を読み解くうちに、これは他の文化と同じく、履き物としてその名称・形状こそ違え殿上人から武士へ、さらには庶民へと広まり、寒冷期の農作業用として大正末期・昭和の初め頃まで珍重されてきた様が窺えました。

 通読してきた資料では奈良・大阪を中心とした限られた地域内での発掘のようですが、大阪の問屋筋?と姫路の製皮業者?間の手になる沓は元来の猪の皮製に比して4倍もする高価な贅沢に類する品であったようです。

 隣町にある総合センターですから、出来るだけ早い機会に資料室を訪ねたいと考えています。

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2006年9月23日 (土)

伝承技能からの考察

  先日の神戸新聞に、大小の自然石をそのまま使い、巧みに組み合わせた石垣を築き上げる技術「穴太(あのう)積み」の故郷紹介がありました。

 古く6世紀後半から7世紀にかけての渡来人に端を発する地域なのだそうですが、それら技術者集団の中で伝承された石積みの技能者は、戦国武将の求めに応じて各地の築城に労したようです。一説によれば、信長の安土城、秀吉の大阪城、さらには山内一豊の高知城などが有るそうです。
 そしてその記事に、14代もその技術を継いでこられ、現在も技能の伝承に励んでおられる方がおいでになるとか、添えられています。

 その記事から私が連想をしたことです。

 その1、「家意識」の形成と「集団差別」
 薩摩焼きの家元沈寿官家は現在息子さんに跡目を譲っておられるようですが、私が「姫路市同和教育中央講座」でご講話を承ったときに、確か秀吉の朝鮮出兵時に島津家に引致されてより14代目に当たられるとお聴きしました。
 ちなみに、拙宅の仏壇に供えられている過去帳も亡父が系図風に整理しまして、明治以前の先祖の本名は不詳ですが戒名で16代前まで確認が出来ております。
 そんなことから私は、現代の日本人が広く抱いている「家意識」は、貴族等の特権意識をもつ一部の人々を除き、早くても17世紀頃から培われ始め、「人別帳」に家長?を中心にして括られるようになったことで強化されてきたのでは無かろうか、との考えに傾いております。
 さらに言うなれば、それが「人別帳」を管理する寺を中心とした信徒・檀家の集団化を育み、それ以前に抱いていた職業・生業への個別の別視が、それらの「ひと」に対する集団による賤視となり、さらには「それらの人」集団への蔑視へと高まってきたのでは無いのだろうか、と考えております。

 その2、「幕藩体制」の強化と「伝承文化」
 NHKの大河ドラマ「功名が辻」の山内一豊ではないですが、当時の戦国武将の夢は「一国一城の主」でしたね。秀吉の天下統一後徳川幕府のある時期までは領地の移封は天下人の政策次第で否は認められなかったかと認識しております。そこには、民族大移動と言わぬまでもそれぞれの城下町形成のために経済・文化の移動が必然的に伴っていたのではないでしょうか。

 その中で出羽・陸奥など「白河の関」以北はどうだったのでしょう。
 会津には徳川親藩が封じられてはいましたが、仙台の伊達家を始め諸侯は秀吉により先祖伝来の地を安堵されるが故に秀吉に臣従し、秀吉は天下統一をなし得たのではなかったのでしょうか。

 と、いたしますと、東北地方は本州の約4分の1の広大な面積を持ちますが故に、奥州藤原氏以来の各地各様の文化や歴史を維持し、折角の上方文化(善悪に拘わらず)の伝来も地方(ぢかた)の伝承文化に同化されつヽ当然薄れていったのではないでしょうか。ましてその伝搬力にも現代とは相当の相違があったものと考えております。

 言い換えれば東北地方には上方やお江戸とは異なった独自の文化が各地に培われていた、と言えましょう。従って、関西の「部落差別」を視る眼で東北の「部落差別」を探ることは間違いの本になるのでは無かろうかと思惟いたします。

 嘗ての「鈴鹿の関」以西を現在でも「関西」と呼びますが、それと同じく「白河の関」以北を嘗ては「河北」と称したようです。その「関西」「河北」をそれぞれ一つの文化圏と捉えますと、1897(明治30)年に創刊の「河北新報」が掲げた「不羈独立」の社是にもその気概を窺うことができると思います。

 以上、史実・史料に基づく考察ではありませんで、自己流の推察・考察の危険を承知いたしておりますればこそ、どうぞよろしくご教示を賜りますようお願い申し上げます。

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2006年9月 5日 (火)

お江戸の古着屋

 昨日(2006.9.4)の神戸新聞【正平調】にあった「お江戸」の風俗から気づいたことです。
 先ずは、その要約(文責:編者)から、

  「ロハス」という言葉、健康な暮らしと持続可能な社会を心がける暮らし方の総称だそうだ。かつての日本にもそういう時代があった。
 そんな発想から文化の日の十一月三日、東京で「江戸文化歴史検定」が実施される。地域の歴史や文化、自然などについての知識を問う、はやりのご当地検定の一種である。
 ただし、特定の地域ではなく、元禄期を中心に、二百六十五年の長きにわたって続いた太平の世として知られ、庶民の文化が大きく花を咲かせた江戸という時代に絞り、当時の暮らしぶりに焦点を当てるのが特色だ。
 その「江戸検定」の模擬問題から、

 「江戸の町はリサイクル都市だったといわれています。では、享保年間(一七一六-三六年)の江戸の町で、幕府公認の商人が一番多かったのは、何でしょう?」とあって、質屋、古着屋、古道具屋、古鉄屋から答えを選ぶ。
 正解は古着屋。

 そこで「ハッ、」と気づいたことがあります。
 それは、かの「渋染一揆」にあたっての嘆願書にある「十人中七~八人は古着を買い求めて着ております」
の一節です。

 今までの私は古着=廃品との認識がありましたし、その嘆願文の前後には日常生活の困難を克服しながら、他の百姓以上に納税や役務に精を出している様子が添えられていますので貧困者という誤った理解をしていたようです。
 この「江戸検定模擬問題」から古着というものは捨てる物ではなくて、売り買いをするほどのもので、当時の庶民にとって欠かせぬ物資であったことを識りました。

 そこからまたズレルのが私の性癖です。ゴメンなさい。
 私の若い頃には、背広など(靴も)は身の丈を測って新調することが、一人前になった証みたいなものでした。「一生物」などという言葉が有ったくらいです。「洋服屋」とは「仕立屋」、「既製服」は「首つり」、「靴屋」とは「製靴店」であったり「修理店」のことでした。

 【正平調】がいう「かつての日本にもそういう時代があった。」は、言い換えれば「かっての日本はその様な社会であった」のだ。

 「鳥の目、虫の目でみる部落史」をあらためて思い知った学習でした。

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2006年8月 5日 (土)

「生命」に触れること

三度 NHK総合TV
です。
 番組では、不妊や多産で苦しむ女性と、生まれくる命を救うために、その生涯を捧げられた荻野久作博士のご苦労が描かれています。

 私は、この番組からいわゆる「オギノ式避妊法」と呼ばれてきた誤った捉え方、普及の仕方に対して、荻野博士ご自身よりの厳しくご指摘・ご批判があったことを知りました。
 そして、とかく誤った理解と安易な利用法に対して「生命の尊厳」を強調なさる博士のご遺徳を偲ぶと共に、私自身の「生命観」を見直し、考え直しつつあります。
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*その時: 昭和5 (1930) 年2月22日
*出来事: 荻野久作の受胎・排卵期の法則を示す学説がドイツの医学誌に発表される

 わずか80年前まで、女性がいつ妊娠するか全くの謎だった。(中略)明治45(注:1912)年、荻野は新潟の病院に赴任。そこで目の当たりにしたのは、不妊、多産で苦しむ農村女性の過酷な状況だった。不妊に悩む女性は、嫁として子を産めないことを責められ自殺、また多産を強いられ命を落とす女性も後を絶たなかった。

 「ひとはいつ受胎するのか?」その時期が特定できれば、妊娠調整が可能となり女性を苦しみから救えるはず。久作は、設備も資金もないなか、患者から地道に聞き取りを重ねることで膨大なデータを収集。そして、ついに一つの法則を見つけ出した。(中略)しかし、当時日本の医学界は権威のない医師の学説として無視。

 そこで久作は論文を手に、単身で先進地・ドイツに乗り込んだ。その結果、“オギノ式懐妊・避妊法”は世界的発見として認められ、婦人医学を大きく発展させることになった。 (NHK HPより要約)
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 番組は、親が見込んだ女性(嫁)を一定期間籍を入れずに家に入れ、家風になじむか、よく働くか、跡継ぎが生まれるかなど様子を見るという「足入れ婚」を紹介し、農家として将来の労働力を維持・確保するために「嫁して3年、子なくばされ」と負わされた女性の使命、「嫁」として地位を押さえることから始まります。

 そのような当時の農村の実態の中で多産による肉体の疲労を看たり、不妊によって離縁された女性の自殺に会ったりと、博士のご研究の動機、女性の身心に係わる問題の故に資料(生理周期など個人の特性)収集の困難(200余人の女性から、分析に必要な長期観察や聞き取り等)を挙げた後、ある女性の「予定日の2週間前に必ず痛む」という一言にコペルニクス的な視点の転換をなさったほど一途なご研究であったことが知らされます。

 それが、いまでもそうですが他にも多くの臨床例があり、学会で効果が認められなくては施術することが出来ないのに、学会誌に「学説」として発表を許されはしたものの、学界では「田舎医者」の「戯言(たわごと)」と相手にされず、即ち「学説」として証明の機会を奪われたが故に、みすみす多くの女性の苦悩を無為に見過ごすしか無く、結局は医学の先進地ドイツに単身自費で赴き、3ヶ月のご努力の末どうにか「ドイツ婦人科中央雑誌」に掲載されるのです。

 しかし、それでも一挙に学界で認証された訳ではなく、この学説に一番早く着目したのがなんとキリスト教カソリック系の信徒たちであったとか。その訴えを教皇ピオ11世は、1930年12月の回勅で容認したとされています。

 どうやら医学界よりもはるか先に宗教界で認知を受けていたようで、ただただ驚きいっている次第です。私は宗教上での認知が一番遅れていたとの認識でいましたので。

 それと、伝える者(当時であれば家庭の女性向き雑誌であったでしょう)の主旨と伝え方によって、博士のご研究の本旨とはかけ離れた利用法に陥ってきたようです。しかも、「避妊法としては現在ではより進んだ方法がある」等、未だに「学説」の一面のみにこだわった評価が普通にあるようです。
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 最後に番組より(原典は「文藝春秋文藝春秋昭和39年2月号の由)荻野博士のお言葉を引かせていただきまして、私の永年の過ちをお詫び申し上げます。

  「かつて私は荻野学説を発表した。しかし、それは、命を守るために生み出した学説であって、決して避妊法の研究ではなかった。」

 この道を歩みはじめて六十年、私はもう八十歳を越えているが、それでも病院でこの『オギャア』を耳にするたびに、朗らかな気分になる。おそらくは、生命の誕生というものが持つ犯しがたい価値に由来するのであろう」

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2006年6月18日 (日)

またまたTVから~

   NHK総合TV

で日本サッカー代表の在りし日の活躍を観ました。そして、その時を「歴史」として識りました。そこからまたまた「愛国心」を考えさせられました。

伝えられた「歴史」は、
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 その時: 昭和11 (1936) 年8月4日 午後5時45分
 出来事: ベルリン・オリンピックで、日本サッカーが金メダル候補・スウェーデンに逆転勝利

 ヒトラー政権下で開催されたベルリン・オリンピック。この大会で、世界を驚かせた日本の奇跡の勝利があった。オリンピック初出場の日本サッカー代表が、金メダル候補・スウェーデンと戦い、大逆転劇を演じた。
 70年前の日本サッカーは、世界のレベルに大きく後れをとっていた。それでも、選手たちは数々の難関を乗り越え、勝利を手に。その決死の戦いは世界の人々に感動を与えた。
 2006年ワールドカップ・ドイツ大会の直前、番組では、日本サッカーの出発点ともいえる“奇跡の勝利”をつかむまでの日本選手の奮闘を描く。 [番組は、平成16年5月12日 (水) に放送した内容を一部変更しての放送]  (以上NHKホームページより)
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 次回の五輪大会(1940年)が丁度皇紀2600年(神武帝が即位した年“西暦前660年”を元年とする)に開催されることから、それを幸いにして国威を世界に顕示するために開催地の誘致を企図した「帝国政府」が図ったPR作戦の一環でもあったようです。

 この大会での前畠選手の水泳、孫選手のマラソンはその後現在に至るまでの語り草であること、特に孫選手の栄光の写真が朝鮮半島(当時の日本統治領、現韓国・北朝鮮国両国にわたる地域)の報道では胸の「日の丸」が消されていたことなどもみなさまご承知の通りです。

 ところが、サッカー競技の関係者にはご承知のことであったのでしょうが、私はこの番組の幾度目かの再放送を初めて観て識りました。  

それは、
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 1.出場チーム選抜試合には、被統治下にあっても民族による「朝鮮蹴球連盟」があって試合に参加し優勝をしたこと。
 2.その優勝にも関わらず、選抜チームは早稲田大学チームを主力に編成し、そのなかに「民族チーム」より金容植選手ただ一人が加えられたこと。
  3.「民族連盟」より辞退を勧奨された金選手だったが、「民族の存在を主張する絶好の機会」(私解)と孤独な決断をなされたこと。おそらくマラソンの孫選手も同じ決意で参加なさったことでしょう。
 4.世界中から無視されていた日本チームも、試合最後の局面にあたって起用された金選手の
 「今からでも遅くはない。後悔は決してしたくない。後は死にもの狂いで戦うだけだ」
との決意と、工藤コーチが後に評したような
 「金が激しい闘志と頑強なるキープ力で守備陣を落ち着かせると、日本のマークは緊密さを加えていった」 
活躍によって日本チームは逆転の勝利を掴んだこと。
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 でした。

 漢詩に
   国破れて山河あり、城春にして草木深し
   時に感じては花にも涙をそそぎ、別れを恨んでは鳥にも心を驚かす、‥‥‥
 とあります。

 その時、私にはこの漢詩が思い描かれてきました。
 大国の狭間にあって亡国の憂き目にあった人々、それでも民族の存在を、誇りを懸けて、生き抜く人々の心こそ「愛国心」ではないのか、そんなことが浮かんで参りました。そこには「国」と呼ぶべき組織・機構は既にありませぬが、永久に変わらぬ山河があり、年々歳々移り変わる季節があり、さらには以前にましても変わらぬ近隣の情がありましょう。

 報道の主題からズレた感慨ですが、私はそこらからさらにさらにズレて「国民保護法」条文を一読しました。

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2006年5月18日 (木)

偶感 ”リンゴの唄”

 NHK総合TV「そのとき歴史は動いた」
で「響け 希望の歌声 ~戦後初の流行歌 "リンゴの唄"~」を視ました。
 これまではただ戦後の暗い世相を明るく引き立て、戦後最初のミリオンセラーといわれる唄という認識でおりましたが、実は彼の国民歌「愛国行進曲」公募に際して選に漏れていた歌だったのだそうです。

 戦局のの長期化と共に物資の統制・配給、戦意の高揚・言論統制等の下で、「音楽は軍需品である。乱れんとする国民の気持ちをわき立てて、動揺する気持ちを不動のかまえにもちなおす。そこに音楽の力がある」【内閣情報部報道部長の言葉 (番組より引用)】とされた時代だったからですね。

 作詞のサトーハチロウーさんの回顧に
 「あのね歌を作る上においては、やっぱり明るい歌を書きたいですね。涙があったり悲しみがあったり、ボクはね、それを一つもないやつをね、」(番組より。以下同じ)

 とあるように、国民も「見よ 東海の空あけて 旭日高く 輝けば~~」の歌詞に象徴されるように「大東亜の盟主」の地位を自認し、「四海の人を導きて」「征(ゆ)け 八紘を宇(いえ)となし」という意気を昂めた時代でもあったのですね。

 しかしその陰で、私たちは高峰三枝子さんの「湖畔の宿」や李香蘭の「何日君再来(ホーリー、ヂュン、ツァライ)」など、大人(おとな)間の「はやり歌」をひそかに手帳へ書き写してほくそ笑んでいたものでしたね。ですが、服装検査時などに見つかると隊列の前へひきずり出されてビンタを喰らったのは勿論のことでした。

 この番組から私が思い返したこと、いつものようなズレですが、書いておきたいと思います。

 その1は、この歌が世に出るまでの経緯です。

 「戦争に負けて、何もかもひっくり返ってしまいました。生活がもとに戻った訳でもありません。その日その日を生きていました。」
 「明るく歌えと言われても何かにつけ母のことなどが思い出され、私はそんなに簡単には明るくなれませんでした。」

 そのような並木さんは街を歩いてくるように勧められます。そこで並木さんが観て帰ったものは、

 「そして見渡す限りの焼け野原。ごみの山のような無惨さ。」
 「坊やたちが声を合わせて〝リンゴの唄〟を歌っていました。その元気そうな横顔。戦争の時代を抜けてやっと青空を見上げられる。それは当時の人たち、みんなの思いでした。」

 おそらくはガード下で「ヘイ!カモン!」とGI(占領軍兵士)を靴磨きに呼び込んでいる戦災孤児たちであったり、「星の流れに身を占って~~」今日の日をそれぞれの力一杯に生きている人々であったのではないでしょうか。
 その後に録音し直された音盤から伝わる曲想が今日に伝わる「リンゴの唄」なのでした。

 その2は、並木さんが前線への慰問旅行中の秘話でした。

 ある夜のことです。一人の兵士に乞われて「うさぎ追いし彼の山 ~~」と唱歌「ふるさと」を密やかに歌って聞かされたことがあったそうですが、そのことにつながっての私の思い出です。

 それは「エンジンの音ごうごうと、隼はゆく~~」の主題歌で親しまれた「加藤隼戦闘隊」の映画からです。(当時私たちは学校から団体鑑賞で映画館へゆきました)
 それは、ある戦闘飛行士が大陸のそれこそ満天の星空に故郷を忍びながら「夕空晴れて秋風吹き~~」と一人口ずさむ姿を映しだしていました。

 ここから更に飛躍するのが、私のいつものズレです。お許し下さい。

 丸岡忠夫さんの詩の一節に
  「吾が子よ お前には 胸はってふるさとを名のらせたい
   “これが私のふるさとです”と 名のらせたい
   瞳をあげ 何のためらいもなく」
 とあります。

 見る人によって所感は十人十色と重々承知の上ながら、時正に「教育基本法」の改訂、「愛国心」とやらをことさらに文字や文章で表し定義しようとすることに疑義を感じている今日この頃、「いつか来た道」を痛いほどに感じながらの所感です。

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2006年2月10日 (金)

移転、開設ごあいさつ

 学習会の「学習メモ」として @nifty による「noteブック」を利用させていただいて参りましたが、サーバーよりのお勧めによりここ「ココログ」への移転を図らせていただきました。

 未だ利用法など理解が不十分なままでございますが、その時々の「想い」を書き綴ってゆきたいと念じております。

 みなさまがたには、なお一層のお引き回し、ご教導、をお願い申し上げながらのごあいさつとさせていただきます。

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2005年8月 9日 (火)

林 力 先生にお会いして

 過日1泊2日にわたって元全同教副委員長 林 力 先生のご謦咳、ご鳳声に接するという私には未だ嘗て考えたこともない至福の時間を授かって参りました。
 それは備前市人権教育研究会総会にあたって、畏敬する藤田 孝志さんよりのご厚情によるものでしたが、前夜から宿とともにお別れするまでの3食を共にさせて頂き、その間の懇談時間は述べ6時間に及んだであろうと思います。

 林先生のご講話はこれまでに3回承って参りましたし、最初出会いとなった28年前の「学び」は弊コーナー「かわる/心の変革を追って」に記録しているとおりです。「同和教育」のスタートラインを求めてコースの中でウロウロしていたときに「位置」と「方向」を指し示してくださったものでした。

 それから3年の後、先生は「隠し続けてきた父のこと」にきづかされた先生ご自身の教育実践を訥々と語られたことが強い思い出となっています。そのお話の重みに私が気づくにはなお数年を要したこと、今は口惜しい思い出です。

 3度目は何年か前の冬、三木市立総合隣保館で「ハンセン病と人権」と我が身の葛藤を振り返ってのお話で、「無知は差別のはじまり。正しい知識をもつことは感性の立ち上がりである」と説かれたと覚えております。

 30年前に僅か3人で立ち上げられた「福岡市同教」、30人に至って「福岡県同教」へと。その思いを今も燃やし続けられて、これからも地方へ出かけられてその地の若い教師と語ることが喜びと語って下さる先生の80歳とは思えぬ若さ、張りのある語調に元気を奮い立たされながら、お互いに再会を約し交わした握手でした。何者をも包み込まれるふっくらとした大きな温かいお手でした。

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2005年7月23日 (土)

「鳥の目と虫の目で見る部落史」

主催:加古川市人権・同和教育協議会/人権教育セミナー
講師:イシタキ人権研究所長 石瀧豊美さん

 お話は、東京書籍(教科書発行会社)の「学習展開案」の解説文に拠り、身分制度を上か下と序列化し、幕府が分裂支配のために創り出したという従来の「近世政治起源説」に対する発行者の反省から説き起こされ、、大阪書籍発行の小・中学校教科書1985年度版から現行版に至までを、3年の改訂毎に具体的に比較しながらのご説明でありました。

 幕末までの被差別身分に関するお話を、かい摘んでまとめてみます。

 ① 「農工商の下に、さらに低い身分」と悪い、苦しいなどのマイナスイメージを強調していた。(1985.6年版)
 ② 「農工商」が「農民・町人」と変わり。初めて農業に従事していたことが書かれる。(1992.3年版)
 ③ 「農業を営み年貢を納めながら、他にも社会を支える仕事や役負担を果たしていた」と、記述がプラスイメージへと変わってきた。(1996.7年版) 
 ④ しかしながら、庶民間の差別観念や阻害意識が武士の支配に都合良く利用されていた。(2001.2年版)

 それぞれの身分とくらし
    -大阪書籍発行「小学社会・6/上」より-
 幕府や藩は、秀吉が決めた身分のきまりをもとに支配をかためました。武士は政治を行い、名字を名のり、刀をさすなどの特権がありました。
 いっぽう、おもに農業や商工業などの仕事をしていた農民や町人(職人・商人)は、武士に支配され、ねんぐなどで武士のくらしをささえる身分とされました。さらに、農民や町人からも差別された人々もいました。これらの人々は、服装や行事の参加などできびしい制約を受けましたが、農業を営んでねんぐをおさめるだけでなく、くらしに必要な生活用具を専門につくったり、伝統的な芸能を伝えたりして、日本の社会や文化をささえる一役をにないました。
 こうした身分のきまりは、原則として親から子へと代々受けつぐものとされ、武士にとって人々を支配していくのにつごうのよいものでした。

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2005年6月 9日 (木)

平成16年度中央隣保館作品展

 去る2月初め、年に1回の講座・サークル生作品展に際して私たち「人権 COME 架夢」は、例年の如く館内の小会議室を借り切って(他の講座・サークルは講堂や大会議室に設けられたコーナーで)、室内には過年度の作品「My Book」や毎月の例会で口と手を別々に動かしながら仕上げた「手作り小物(含革作品)」、中には市内全世帯配布が恒例となっている「人権カレンダー」で今年度の表紙を飾った作品などを展示をし、中央の丸テーブルではゲストを囲み、お互いに話を交わしながら(ただし、コーヒーは一杯100円)用意したハート形の色紙に各自に書いていただきました。

 下の写真は、その「私のねがい」を順次廊下に掲示していったものです。最年少のゲストは、3歳位のの少女で「わたしも!かくっ!」って、ご自分のお名前を力一杯に書いてくださいました。
 見守る私たちには「人の世に熱あれ、人間に光りあれ」の思いを改めて噛み締めさせられた一瞬でした。

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