NHK総合TV
で「響け 希望の歌声 ~戦後初の流行歌 "リンゴの唄"~」を視ました。
これまではただ戦後の暗い世相を明るく引き立て、戦後最初のミリオンセラーといわれる唄という認識でおりましたが、実は彼の国民歌「愛国行進曲」公募に際して選に漏れていた歌だったのだそうです。
戦局のの長期化と共に物資の統制・配給、戦意の高揚・言論統制等の下で、「音楽は軍需品である。乱れんとする国民の気持ちをわき立てて、動揺する気持ちを不動のかまえにもちなおす。そこに音楽の力がある」【内閣情報部報道部長の言葉 (番組より引用)】とされた時代だったからですね。
作詞のサトーハチロウーさんの回顧に
「あのね歌を作る上においては、やっぱり明るい歌を書きたいですね。涙があったり悲しみがあったり、ボクはね、それを一つもないやつをね、」(番組より。以下同じ)
とあるように、国民も「見よ 東海の空あけて 旭日高く 輝けば~~」の歌詞に象徴されるように「大東亜の盟主」の地位を自認し、「四海の人を導きて」「征(ゆ)け 八紘を宇(いえ)となし」という意気を昂めた時代でもあったのですね。
しかしその陰で、私たちは高峰三枝子さんの「湖畔の宿」や李香蘭の「何日君再来(ホーリー、ヂュン、ツァライ)」など、大人(おとな)間の「はやり歌」をひそかに手帳へ書き写してほくそ笑んでいたものでしたね。ですが、服装検査時などに見つかると隊列の前へひきずり出されてビンタを喰らったのは勿論のことでした。
この番組から私が思い返したこと、いつものようなズレですが、書いておきたいと思います。
その1は、この歌が世に出るまでの経緯です。
「戦争に負けて、何もかもひっくり返ってしまいました。生活がもとに戻った訳でもありません。その日その日を生きていました。」
「明るく歌えと言われても何かにつけ母のことなどが思い出され、私はそんなに簡単には明るくなれませんでした。」
そのような並木さんは街を歩いてくるように勧められます。そこで並木さんが観て帰ったものは、
「そして見渡す限りの焼け野原。ごみの山のような無惨さ。」
「坊やたちが声を合わせて〝リンゴの唄〟を歌っていました。その元気そうな横顔。戦争の時代を抜けてやっと青空を見上げられる。それは当時の人たち、みんなの思いでした。」
おそらくはガード下で「ヘイ!カモン!」とGI(占領軍兵士)を靴磨きに呼び込んでいる戦災孤児たちであったり、「星の流れに身を占って~~」今日の日をそれぞれの力一杯に生きている人々であったのではないでしょうか。
その後に録音し直された音盤から伝わる曲想が今日に伝わる「リンゴの唄」なのでした。
その2は、並木さんが前線への慰問旅行中の秘話でした。
ある夜のことです。一人の兵士に乞われて「うさぎ追いし彼の山 ~~」と唱歌「ふるさと」を密やかに歌って聞かされたことがあったそうですが、そのことにつながっての私の思い出です。
それは「エンジンの音ごうごうと、隼はゆく~~」の主題歌で親しまれた「加藤隼戦闘隊」の映画からです。(当時私たちは学校から団体鑑賞で映画館へゆきました)
それは、ある戦闘飛行士が大陸のそれこそ満天の星空に故郷を忍びながら「夕空晴れて秋風吹き~~」と一人口ずさむ姿を映しだしていました。
ここから更に飛躍するのが、私のいつものズレです。お許し下さい。
丸岡忠夫さんの詩の一節に
「吾が子よ お前には 胸はってふるさとを名のらせたい
“これが私のふるさとです”と 名のらせたい
瞳をあげ 何のためらいもなく」
とあります。
見る人によって所感は十人十色と重々承知の上ながら、時正に「教育基本法」の改訂、「愛国心」とやらをことさらに文字や文章で表し定義しようとすることに疑義を感じている今日この頃、「いつか来た道」を痛いほどに感じながらの所感です。
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